ボクの定年

還暦オーバー!今日もチャレンジ!

長い夜の旅

17:30

「それでは、よろしくお願いします」

ボクは事務課長から病院のマスターキーを預かった。

これから明日の朝まで事務当直の任務にあたる。事務当直というのは、17:00~21:00の事務受付業務、具体的にはお見舞いの人の対応や入院費等の受領、時には救急患者の受け入れ対応などがある。

些細な仕事としては、宿直医師の夕食を医局まで運ぶ、防災用の非常発電設備の点検などがある。

21:00以降は基本的に宿直室待機なのだが、24:00には敷地内の安全見守りという謎の業務も強制されている。

完全に労働基準法違反だと思うのだが、文句を言うのも面倒くさいので、そのままにしている。

ボクはリハビリの専門職としてこの田舎の老人病院に勤めて8年になる理学療法士である。4年前に結婚した妻と2人の子供がいる。

ちなみに当直は10日に1回、月に3回ほどだ。

 

18:00 

日勤の職員が帰って行く。仲の良い看護師S子(28歳)がすれ違いざまに

「今日はアリかもね」

と意味ありげに囁いた。

残念ながら色っぽい話ではない。

今日はこの病院で寿命をまっとうする患者さんがいるかもねという意味だ。

いつもながらとてもブルーな心境になる。

人間の死に対する神聖な気持ちと自分の仕事が大変になることがゴチャゴチャになって混乱する。

それでもプロらしく僅かに口角をあげて

「まかせろ」

と虚勢を張った。

 

19:00 

 患者さんの家族が入院費を払いにくる。

間違いがあっては面倒なのでしっかり確認しながら手続きしていたら

「遅い!」

とキレられた。

そして自分の親なのに面会もせずに帰って行った。

老人病院に入院している患者さんの1/3は寝たきりだ。

そしてそのほとんどが、もうコミュニケーションを取ることが出来ない。

 

20:00

宿直のドクターの食事を医局に届ける。

当直業務の中でボクが一番嫌いな作業だ。

厨房でラップしてある宿直定食をレンジでチンして運ぶだけ。

 ドクターは大学病院からのアルバイトでボクよりも若いことが多い。

髙そうなソファーに腰を下ろしてテレビを観ている。

「お食事をお持ちしました」

と声をかけると

テレビの画面から顔をそらすことなく

「ウィー」

と、ふざけた応答をされる。

それどころか

「ココのご飯、ちょっと不味いよね」

ボクの顔も見ずに愚痴られる。

知ったこっちゃねぇと思いながら、それでも

「すみません」

と頭を下げて医局を出る。

 

21:00

戸締りの時間だ。

玄関や外来診察室やリハビリ室、厨房などの見回りと戸締りに廻る。

マスターキーをカチャカチャと振り回しながら指さし確認をしていく。

いつものことだから見落としなんかないのだけれど、問題は起こしたくない。

慎重に施錠を確認する。

遠くで暴走族の爆音が聞こえる。同時に足元で虫の音もする。

ここまではまあなんとか平和だなと安どする。

 

21:27

閉めたばかりの正面玄関のドアを猛烈な勢いで叩く音がする。

ボクは宿直室から飛び出して、狼狽えながら状況の把握に努める。

40代のがっしりとした背広姿の男性が、20代そこそこの女の子を抱っこしている。

男の形相は真っ赤で鬼のようだった。

そして抱えられている女の子は意識がないみたいだ。

尋常じゃないと判断して急いで玄関のドアを開けた。

なだれ込むように院内に入った男は、玄関のすぐ横にある受付カウンターに、女の子をドンと置いた。

「なんとかしてくれ!」

やっぱり大変な状況のようだ。

騒ぎを聞きつけて、ドクターがやってきた。

どうしました?との問いかけにもかぶせ気味で

「こいつ、睡眠薬を大量に飲みました」

「死なせないでください」

ボクは外来診察室の鍵を開けながら、男の話に聞き耳をたてた。

近くのラブホで一緒にいた女の子が自殺を図ったようだった。

どうも、不倫みたいだ。

ドクターは女の子の年齢や睡眠薬の摂取量などの情報を、効率よく聞き出していく。

悔しいけど、狼狽えて興奮しているボクとは真逆で、冷静で優秀だ。

少しづつ男のほうも落ち着いてきた。

身分証明のための運転免許証と健康保険証の提示を要求した。

男は一瞬ためらう素振りを見せた。

「俺の保険証、何に使うんだよ?」

そうだった。患者は女の子だから女の子の保険証が必要なのだ。

無能さが悟られてしまわないように話をそらし、女の子のバッグの中から保険証を見つけて欲しいと頼んだ。

幸い、すぐに見つかって、ボクはボクの責任を果たしたような気分になった。

 

23:35

女の子が接種した睡眠薬は20錠ほどで、とても致死量に届くものではなかった。

ドクターは生理食塩水の点滴と、導尿(尿道口に管を通して強制的に排尿させる)の処置で、女の子はすぐに意識を回復した。

グスグスと泣き出していたが、自殺未遂よりも導尿された恥ずかしさのほうが勝っているのか、男の陰に隠れて泣いていた。

そろそろ日付が変わろうとする頃、二人は乗ってきた車で帰っていった。

 

0:30

 見回りの時間が30分遅れることになったが、気を取り直して病棟を巡回した。

案の定、3Fナースステーションではボクが来るのを待ちわびたように看護師からの質問攻めを受けることになる。

個人情報だから話せないと、上手くかわそうとしても、彼女たち(推定40歳~60歳)の下衆な好奇心は、それを許してくれない。

結局、ナースステーションに連れ込まれて、イチゴ大福などのおやつを強制的に喰わされた。

そして、イチゴ大福が交換条件のような役割を果たし、ボクは洗いざらいゲロした。

もちろん男女の氏名住所だけは、悪魔の手に渡してなるものかと死守したのだが。

せめてもの良心というものだ。

 

やっとのことで3F病棟を脱出したボクは、2Fナースステーションで急にテンションを落とすことになる。

重症患者が多い2Fに足を踏み入れた瞬間、なにかとても重たい空気を感じた。

その時になって、夕方にS子に耳打ちされたことを思い出した。

そうだ、危ない人がいるんだ。

ボクは意味もなく足音を立てぬようにそろりそろりと歩き出した。

ステーションに声をかけると、ドクターと看護師が忙しそうに歩き回っていた。

「ご家族に連絡をおねがいします」

と、超真顔で告げられた。

ボクは、つい15分前の自分をおもいっきり恥じた。

本当にくだらない人間だと、心の底からおもった。

「わかりました。急いだ方がいいですか?」

「もう、呼吸が浅いです」

いつも冗談を言い合う看護師の顔も緊張している。

カルテから連絡先をメモしたボクは、ひどく事務的な態度に豹変していた。

 

1:10

病棟から事務室に帰って、慌ただしく準備を始めた。

まず、家族への連絡。

「このような時間に申し訳ありません。○○様のご容態が急変されましたので落ち着いて病院までお越しください」

「・・・・はい・・・」

数日前から病態は知らされていたので、ご家族の口数は少ない。

それから再度閉めた正面玄関をまた開錠して、ロビーの照明をつけた。

霊安室に入り、蝋燭やら線香やらをセットする。

事務室にとって帰り、死亡診断書の準備にとりかかる。

まだ亡くなってもいないのに、とんでもなく失礼な事だとわかっている。

だけど結果的にはスムーズな進行が感謝される。

 

2:00

家族が病院に到着する。

「ご心配です、お二階になります」

なんとも間抜けな挨拶をした。

家族はボクに一瞥もすることなく階段を上がっていく。

こんな時はなるべく言葉を交わさないほうが良い。

何を言っても殺気立っている家族の耳には届かないからだ。

ボクは事務室に戻り、死亡診断書の準備の続きに専念した。

何人かの家族がロビーに降りてきて、ぼそぼそと話しをしている。

時々、虫の音が混ざる。

 

4:05

「死亡診断書を持ってきて」

ボクよりも若くてボクよりも優秀なドクターから内線が入った。

それは患者さんが亡くなったという事を意味していた。

2Fに上がると家族全員が沈痛な面持ちで亡くなった老婦人を見つめていた。

立ち止まり、家族の背中に無言でお辞儀をして、ナースステーションのちいさな回転椅子に座っているドクターに近づく。

あと数カ所を埋めるだけで完成する死亡診断書を手渡した。

またしてもこのドクターはボクの顔を見ないままだ。

背を向けているドクターの後ろで、ボクは立ったまま死亡診断書が完成するのを待った。

 

5:50

病棟の看護助手の手で死に化粧を施されたご遺体は、霊安室の小さなベッド横たわっている。

思った通り、ご家族の希望は少しでも早く自宅に連れて帰りたいとのことだった。

 

葬儀社の車が霊安室に横付けされ、最短距離で車上の人となった。

ボクは長男と思われる人に封筒に入った死亡診断書を渡した。

「大事な書類になりますので・・・」

この時の適切な言葉が未だに分からない。

そしてパァーーーーーン と寂しげなクラクションが裏口から消えていった。

 

6:30

休む間もなく朝の見回りをはじめる。

すっかり明るくなった空が残酷なほど青い。

そういえば晩メシ食べていなかった。

 

7:00

事務所の小さいシンクで歯みがきをしていたら、事務長が出勤してきた。

「今ごろ歯みがきですか?準備が悪いですね」

なにも知らない奴が、なんてことを言うんだ。

腹が立ったが面倒くさいので完全無視してやった。

あとから出勤してきた事務課長にマスターキーを返して、ボクの長い夜の旅が終わった。

 

これから一睡も取らずに通常業務が始まると思うと、毎度のことながら胃が痛い。

 

 

 

※体験に基づくフィクションです