セミリタイア small life

還暦オーバー!今日もチャレンジ!

ポッケ村は今日も平和だ

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お盆休みは暇でした。出歩く気力もお金もないので、ひたすらモンハン2G for iOSをやっては昼寝するを繰り返していました。おかげで極度の肩こりと眼精疲労に苦しめられております。ゲームすら集中してできない身体になったのかととても寂しい気持になりますが、ポッケ村の平和は保たれており、今後も村の発展に寄与すべく飛龍を狩りまくろうと考える次第です。

ゲーム内では飛龍を狩るとゲーム内通貨を受け取ることができます。その通貨でより強力な武器や防具を作り、より強力な飛龍を狩れるようになります。結果的にポッケ村は飛龍に蹂躙されずに済むわけです。村の発展はモンスターハンターの力量にかかっているのです。そしてモンスターハンターは決してボランティアではなく自らの富と栄誉と探究心のために、日夜奮闘するのです。最終的には王室のような豪華な施設でブレスワインを飲みながら下界を眺めることになります。

地域を守るためにいろんなボランティアが頑張っています。実はボクも自治会の役員をしています。しかし、いつも疑問に思うのは、地域の何を守るのか地域の何に貢献すべきなのかという根本的な問題です。そもそも社会インフラを守らなければならないのは行政の仕事です。 そのために税金を徴収しているのだと認識しています。地域の課題に関しても行政が先頭に立つのは当たり前の事で、もし諸般の事情でそれができないのであれば行政は黙って見ているしかないのではないかと思います。その結果、地域が崩壊する危機が高まるのなら、国民から徴収した税金を正しく使うことができない行政が責められるべきで、ボランティア活動が足らないからではないはずです。そうして地域が衰退するのもある意味自然な事だとも思います。能力のない行政区は統合されたり消滅したりする方が今後の人々の幸せに繋がるのかも知れません。ただ、やみくもに守るのはどんどん無理と無駄を増やすだけではないでしょうか。

「それでは困る、30年ローンでマイホーム建てたばかりなんだ」

そんな人はまず、自分の間違った判断を責めてください。そのあと、行政の守備範囲外で自分が守りたい事を、同じ地域の同じ悩みを持った仲間を探しましょう。それが自治会です。自らの課題を解決すべく身体を使いましょう。身体を使うことができない人はお金を出しましょう。身体もお金も出せない人は文句を言わずに従いましょう。ボランティアはとても有り難い存在です。

最後の悪手

ボーナスは旧盆の前に支給することが慣例になっている。資金繰りというやつだ。新コロのせいで3月と4月の売り上げが振るわず月間赤字は3ケタとなった。そもそも少ないボーナスだが、例年通りの額で支給するとどう考えても資金ショートする。今年の夏は特別な夏なのである。

幹部会を開いて協議して、例年の50%ということになった。住宅ローンなどある家庭では結構キツイ決定だ。金融機関からの借入も考えた。だけど借りた金は返さないといけない。新コロの脅威がいつまで続くか分からないのでリスクはなるべく取りたくない。あと4年で引退する身でもあり、後輩に苦労をかけたくないのだ。だからボーナス50%減が最適な結論に見えた。でも、一般社員はどうだろう?自分たちにはまるっきり非がないのにボーナスが半分になる事を受け止めきれるだろうか?東京女子医大のように義憤を感じてもおかしくない。その時は説明はするが弁明などしないと決めた。経営努力と経営能力が足りていない結果だろう。

ここまでは、この決定がもたらす結果に対して納得している。問題は次の一手。ボク個人の通帳から全社員に「慰労金」を支給するように、経理担当の妻に伝えたことだ。全社員と言ってもたかだか15名ほど、慰労金の総額も35万円程度のしみったれた金額ではある。しかしこれは悪手だろう。社員が置かれている状況をこれっぽっちのお金で納得させようとするのは傲慢である。個人のお金であることは恩着せがましいありがた迷惑でもあり、偽善のそしりを受けるに値する。それが分かっていたにも関わらず、ボクは今回も間違った。

会社役員は年間報酬制である。年度初めに自らの報酬を決め、変更するのは難しい。ボクの場合はボーナスは最初からゼロ円にしている。だから社員は減収になってもボクは減収にならない。この事だけが喉につっかえた魚の骨みたいにボクの安眠を妨げた。もう評価されるとか今後の皆の動機付けなど関係ない。ただ、痛みを共にしたかった。それでどうにか連帯感という絆を感じることができると思うのだ。まったくの悪手である。そしてキャリアから考えると最後の悪手である。

本当はホンダのクロスカブが欲しかった。堤防に魚釣りに行ったり、風景写真を撮るための日帰りツーリングをしたかった。新コロのバカ野郎め♪♪

ボク達が勝つことができない理由

この世の中では、多少自己中心的な人間が上手くいっているように思える。なるべく自分に利になるようなゲームしか参加しない。スタートの時点から最後まで負ける気がしないゲームで勝つのが効率的だ。資本主義経済の中では現にお金を持っている人が圧倒的に有利だ。スポーツなら身体能力が高い人ほど勝つ確率は高い。もともと絵が下手な人が絵画コンクールで入賞するのは奇跡に近い。何も得意がない人が常に負け続けることになる。

小学生の頃、クラスで将棋のムーブメントがあった。ボクはいつも負け組だったのだけど、一番将棋の強い子から「棒銀戦法を教えてやるから」と言われてつい嬉しくて放課後に将棋盤を囲んだ覚えがある。ムーブメントの中で将棋の強い鬼塚君はスターになった。クラスの中心で発言力と影響力を持つようになった。その頃、サッカーも流行りはじめていた。サッカーは割と得意だった。でも、将棋で負けるのが悔しくて強くなりたいと将棋を取った。だけど少しずつサッカーで遊ぶ子が増えていきスターの座はサッカーが得意な松山君が勝ち取ることになる。将棋グループは3~4人に減っていてボクは鬼塚君の子分みたいになっていた。今でいうマウントを取られていたのだ。ボクと遊んでほしいくせに命令口調で将棋に誘うのだ。もうボクは将棋が嫌いになっていた。鬼塚君を見捨ててサッカーに興じた。

お金儲けが得意な人はお金がいかに有用かを論じる。そして一人でも多くの人がお金稼ぎゲームに参加するように促す。権威を持っている人は体制を維持することの重要性を説き、寄らば大樹の陰に多くの人を集め、さらに体制を強固なものにする。何も知らない烏合の衆は甘い言葉にほだされて、良くわからないルールのゲームに参加させられている。参加させられているという意識も持てないほど、彼らは巧みに自分が勝てるフィールドに誘い込む。

誘い込んでかすめ取る。人生は勝ち負けではないという意見ももっともだ。かすめ取られても気にしなければいい。でも、ゲームは少なくとも楽しいものでなければならない。勝てる領域を発見し、領域を拡げ、フィールドのスターになるのが得策だ。

自分が高齢者になって思うこと

現在61歳のボクはまったく高齢者の自覚がありません。自分の中では自分が年寄だって思っていません。レッテルは他人が張るものでしょう。カテゴライズすると思考の中で整理ができるからだと思います。一部の他人からみて高齢者に分類分けされた気分はあまり良くありません。だけど分けられたことによって自意識が少し変化しているのに気づきます。

何度も書いていますが、ボクは高齢者のデイサービスを経営しています。開設したのは44歳の時、まだエネルギーに満ち溢れていました。何らかの障害を持った高齢者の生活を改善することリハビリテーションを支援することに情熱を燃やしていました。

今は違います。高齢者の生活を改善するなどおこがましいと思ってるしリハビリテーションは支援してできるものではないと感じています。へりくだった表現を使っているのではありません。自分が高齢者になったら、そんなことはありがた迷惑だってことが分かっただけなのです。リハビリしたい人は黙っていてもリハビリするし、生活を改善すべき状況があったとしてもそれを他人がどうこうと意見するなど、まったくもって迷惑千万なのです。助けてほしい時だけ最小限の支援をしてくれたらそれでいいと思います。

他人が判断する改善すべき状況と自分達(高齢者等)が改善したい状況は必ずしも一致しないのです。誤解を恐れずに例で示すと「もう、このまま死んでも良いのでほっといてくれ」という要望は完全に打ち消されます。ケアマネージャーをはじめ医療介護の専門家は、今こそ自分の存在意義が示される時だとばかりに目が輝きます。形としては寄り添い、話に傾聴しているものの結論は「私たちが支えますから頑張りましょう」です。ちなみに支える時間は営業時間内だけです。

逆に、何が何でも助けてほしいという高齢者もいます。気持ちとしては充分理解できるし、むしろそれが多数派ではないでしょうか。しかし、そんなことは不可能です。人はいずれ年老いて死ぬのですから。北欧では胃ろう(口から食事のとれない人、飲込む力の無い人のために、直接、胃に栄養を入れるためのお腹に穴をあけること)がないと聞きます。口から食べれなくなったらそれが寿命という文化なのです。そこまでは国を挙げて福祉に注力する、しかし食べられなくなったら、もうすぐお迎えが来るよと優しく告げる。そんな文化があるのに手厚い福祉のところだけ取り出して日本にも導入すると歪んだ制度ができてしまうのだと思います。助けてもらって当たり前の社会は一見すると優しい社会ですが、助けてもらえなかった時の失望感は計り知れず自分だけが損をしたと感じるでしょう。さらに助けてもらった先には必ずしも自分の意図するLIFEがあるとは限りません。自然に任せるのが一番優しいのかもしれません。

 

 

3人の後期高齢者の意見

61歳になったボクは高齢者といえるのか、まだまだ高齢者と名乗ってはいけないのか、宙ぶらりんな感覚です。しかし、後期高齢者とは明確な基準があります。75歳以上という年齢です。あくまでも医療制度のなかの基準ですが、一般的にも異議を唱える人はいないと思います。75歳以上は後期高齢者という何か現世から隔絶されたような分類分けがなされるのです。「後期高齢者の生活と意見」という本を読んでみたのですが、小林信彦先生もお歳を取られた感が強く、何が言いたいのか最後までわかりませんでした。でもこれはボクのポンコツ読解力のせいでしょう。ボクの文章だってまったくの自己満の世界ですし、何かを伝えるって結構難しいですよね。

ボクの母親(同居、87歳)の意見

「マスクもしないで外出する若者は大馬鹿者。」今のところ認知症を発症してはいませんが、テレビを見ながらテレビに向かって割と大きな声で文句を言っている。自信はないがたぶん認知症ではないと思う。彼女の意見を要約すると若者は発症する確率は少ないかもしれないが、ウイルスをまき散らすことの重大性を理解していない。感染することで社会にとんでもない不利益をもたらす可能性を想像することができない馬鹿者である。というもの。確かに一理ある。若者に限らずすべての人が外出を20%以下に抑えれば、感染拡大は起こらず、一時的には社会への不利益も発生しないだろう。だけど、それはムリだ。就業可能な人は仕事をしてお金を得ないと生きて行けない。年金があるのは60歳以上の高齢者?だけだ。外出を20%以下にして経済が回るとは到底思えない。まして地方ではリモートワークできる仕事などないに等しい。とてもムリです。若者は活動して経済を回さないといけない。動くなというのは死ねと言っているようなものです。後期高齢者からしてみれば、もしも感染したら重症化しやすく致死率も高くなる。高齢者は死ねと言っているように感じるでしょう。若者からの意見では、怖いのなら高齢者こそ家から出るな、家族とも接するな、そうすれば安全だ。そう言いたいに違いありません。世代間で埋められぬ壁(溝?)ができたのです。お互いの生存権を主張してお互いを攻撃する構造ができてしまいました。

デイサービスを利用する(ほんのちょっと認知機能が低下した)女性の意見

 「ワクチンが出来たら、医療従事者よりも高齢者を先に投与すべきだ。」感染すると高齢者が一番危ないのだから医者よりも先にワクチンを打ってほしい。この言葉を聞いたときは、正直言葉に詰まりました。論理性をもって説明したところではたしてどれだけ理解してもらえるだろうか?自分の説明能力の低さに愕然としました。ムリです。世界の中心はアナタではないのですが、もう間違いなくアナタは中心を譲ることはないでしょう。きっと、ずっと。 

デイサービスを利用する男性(90歳)の意見

「まだ、自分の命が誰かの為になるのなら頑張ってこの命を使いたい。」

 デイサービスに通うのは、頑張って働いているスタッフが好きだから。彼女らの生活を支えることに繋がるのなら少しぐらいきつくても頑張って通いたい。そういう意味だそうです。自分達(後期高齢者)の多くは、もう社会とさんざん取っ組み合い、その使命も全うした。いつ死んでも悔いはない。やれるだけやった、燃えカスみたいなもの。だけど燃えカスでも使い道があるのだったら、使ってほしい。ボクは涙こそ流しませんでしたが、下のまつ毛で受け止めていました。自分勝手にボクは与える側だと思っていました。与えられて支えられていました。とんだ大馬鹿者はボクでした。

できるならボクは3番目の高齢者の様に生きたいです。

生きる権利と死ぬ権利

ALSを患う女性への嘱託殺人が話題になっている。依頼したのは女性本人だから自殺と呼べない事もない。この事件でまた「生きる権利と死ぬ権利」を考える事になった。ボクは死ぬ権利を認める派です。但し本人が家族と医師それ以外の多くの人と相談して冷静な判断ができる時間を費やすという条件付きです。日本の法律的には超消極的な安楽死しか認められていません。だけど法律に意味があるのでしょうか?法律は多くの人がお互いに安全に快適に生活できる様にするための規則だと思っています。人の権利を侵害してはならないというのが根底にある真理ではないでしょうか。生きる権利はともかく(場合によっては死刑など生きる権利が認められないケースもある)死ぬ権利は他人の権利を侵害することはないのです。舩後靖彦氏の『「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。』という発言を否定するつもりはありません。気付きを与えてくれる貴重な意見だと思います。生きたいと思う人にはその権利を十分保護できる社会ができたら良いし、死ぬ権利を否定されない社会も共存できる社会がより良いと思うのです。本人の死ぬ権利を家族や医者や周りの人も認めることが出来たら権利を行使して問題が生じる事があるのでしょうか。生きる事は義務なのでしょうか。ボクは老人病院勤務時に、多くの自分の意思ではなく「生かされている人」をたくさん見てきました。色んな事情があっての事です。ただ、生きていて欲しいと思う家族の為。経済的に死んで欲しくない親族のため。病院の収入源のため。生命維持装置を外す事ができない法律のため。他にも沢山の理由があります。そしてその理由のために耐えがたい苦痛を受け止めているのは生き続けている本人なのです。権利はありません。

どうしても理解してほしいのは、個人の意見を否定しているわけではないことです。意見は表明したほうがいいと思いますが、押し付けてはいけないと思います。いろんな意見がある事だけでも共有するべきでしょう。それぞれの意見を尊重することこそが重要であるはずなのです。そして生きる権利が侵害されない様に発言に気をつけなければならないでしょう。

 

ここからどう生きようと考えます。何もしないで飯食って寝る生活もできるし、まだまだ仕事して動き回る生活もできるだろう。全部、自分で考えてコントロールできる時間を過ごしたいと思います。今日、お墓の掃除に行ってきました。墓前で亡父と語ったのは、後悔のない時間を生きろ!死ぬその時まで後悔がない様に生きたいという事でした。

楽天カードを作ったが、欲しいものがなくて困った、いや笑ったw

おちこぼれの高校生だった頃、一番の望みは大学生になって北海道をバイクで旅することだった。それが自分を変えてくれる唯一の方法だと思っていた。いま考えると滑稽な話だが、真剣に考えていた。当時は何も持っていなかった。お金もバイクも教養も。ほぼ「無」に近い存在だった。いてもいなくても問題にならない何物でもない人間がボクだった。当然、欲しいモノだらけだ。モノを手に入れるのが自分を何者かに変える最初のハードルだと考えていた。

大学生になってバイトして小さなバイクを買った。だけど北海道には行けなかった。現実をしっかり見た結果、近県への1泊2日の旅になった。大学時代は絵の具を買った。50号や80号の大きなキャンバスに高い絵の具を塗りまくった。それで評価の高い絵が描けたかというと、そうでもない。4年の秋に部室の裏で全部燃やした。

お金で買えるモノはボクの欲しいモノとは少しだけズレていた。買ったモノで経験できるコトが欲しかったのだけど、それは容易に手に入らないことがわかった。だけど大学を卒業して自分でお金を稼ぐようになっても、いろんなモノが欲しくなっていろんなモノを買い続けた。パソコンを買い、ビデオデッキを買い、バイクを買い、家を買い、ポルシェまで買った。全部の買い物に後悔していないし経験を豊かにしてくれるモノばかりだったけど、買う前になんとなく想定していたワクワクに満ちた状態が継続していることはない。モノは所詮モノだ。最近はワクワクさえなくなっている。ドライバーを新しくしても(型遅れ)それでスコアが良くなることはないと知っている。windows10に変えても使いづらさが先に来る。最新型のロードスターを売り払って25年前の初代ロードスターに乗り換えた。 

もう欲しいものが無いのです。

家も買ったし(ローンは残っている)車道楽も落ち着いた。家電は定期的に壊れるけど困ることは無い。田舎のゴルフは5000円くらいで出来るし、映画はamazonプライムでどうにかなる。子供にもお金がかからない(孫が生まれれば話は別)87歳の母親は元気で、あろうことか食費を月に6万円も入れてくれる。シニアの支出の定番である旅行もコロナ禍では気軽に行けず、お金をつかう機会も無い。もうボクは消費者として終わっている。内館牧子の「終わった人」だ。

楽天市場を見渡しても欲しいモノは見当たらない。