ボクの定年

還暦オーバー!今日もチャレンジ!

自分が高齢者になって思うこと

現在61歳のボクはまったく高齢者の自覚がありません。自分の中では自分が年寄だって思っていません。レッテルは他人が張るものでしょう。カテゴライズすると思考の中で整理ができるからだと思います。一部の他人からみて高齢者に分類分けされた気分はあまり良くありません。だけど分けられたことによって自意識が少し変化しているのに気づきます。

何度も書いていますが、ボクは高齢者のデイサービスを経営しています。開設したのは44歳の時、まだエネルギーに満ち溢れていました。何らかの障害を持った高齢者の生活を改善することリハビリテーションを支援することに情熱を燃やしていました。

今は違います。高齢者の生活を改善するなどおこがましいと思ってるしリハビリテーションは支援してできるものではないと感じています。へりくだった表現を使っているのではありません。自分が高齢者になったら、そんなことはありがた迷惑だってことが分かっただけなのです。リハビリしたい人は黙っていてもリハビリするし、生活を改善すべき状況があったとしてもそれを他人がどうこうと意見するなど、まったくもって迷惑千万なのです。助けてほしい時だけ最小限の支援をしてくれたらそれでいいと思います。

他人が判断する改善すべき状況と自分達(高齢者等)が改善したい状況は必ずしも一致しないのです。誤解を恐れずに例で示すと「もう、このまま死んでも良いのでほっといてくれ」という要望は完全に打ち消されます。ケアマネージャーをはじめ医療介護の専門家は、今こそ自分の存在意義が示される時だとばかりに目が輝きます。形としては寄り添い、話に傾聴しているものの結論は「私たちが支えますから頑張りましょう」です。ちなみに支える時間は営業時間内だけです。

逆に、何が何でも助けてほしいという高齢者もいます。気持ちとしては充分理解できるし、むしろそれが多数派ではないでしょうか。しかし、そんなことは不可能です。人はいずれ年老いて死ぬのですから。北欧では胃ろう(口から食事のとれない人、飲込む力の無い人のために、直接、胃に栄養を入れるためのお腹に穴をあけること)がないと聞きます。口から食べれなくなったらそれが寿命という文化なのです。そこまでは国を挙げて福祉に注力する、しかし食べられなくなったら、もうすぐお迎えが来るよと優しく告げる。そんな文化があるのに手厚い福祉のところだけ取り出して日本にも導入すると歪んだ制度ができてしまうのだと思います。助けてもらって当たり前の社会は一見すると優しい社会ですが、助けてもらえなかった時の失望感は計り知れず自分だけが損をしたと感じるでしょう。さらに助けてもらった先には必ずしも自分の意図するLIFEがあるとは限りません。自然に任せるのが一番優しいのかもしれません。