ボクの定年

還暦オーバー!今日もチャレンジ!

医療従事者のストライキ

先日も触れた医療従事者のボーナスが例年より減少した問題。さらにその事で400人規模の看護師が退職を考えている事。千葉では医師や看護師など医療従事者のストライキが行われたとのニュースを拝見しました。

https://news.goo.ne.jp/article/mag2/nation/mag2-458291.html

日本の大きな課題が見えてしまったと思っています。国民皆保険の下で社会保障の一つとしての医療制度は半民半官状態で存在しています。ほとんどの病院は公的医療保険を利用して医療活動を行い、収入の7割程度を公費から得ています。そうして得た医療報酬を持って病院の経営を法人として行っています。半分民間で半分は官製なのです。今回のコロナ禍ではほとんどの病院が大幅な減収となっていると聞きます。誰のせいでもなくコロナウイルスが原因で経営がおかしくなっているのです。もちろん個別に見ていくと経営能力が低い病院や理事長みたいな人が無茶苦茶な役員報酬を取っていたりする病院はあると思います。しかし、それは別の問題です。今、問題となっているのは病院の収入が激減した時にボーナスで調整することの是非なのではないでしょうか。

ニュースで取り上げられている病院ではボーナスが0.9ヶ月しか出なかったそうです。ボクの会社では通常が1ヶ月分なので、とても複雑な気持ちになりました。通常の何倍も苦労した挙句に酷い仕打ちだ的な文脈でした。間違いなくとんでもないストレスと人員不足の中で医療体制を死守してくださったことには頭が下がります。できれば特別ボーナスを出してほしいと心から思います。しかし国公立の病院ではない一般病院は収入の中から人件費や設備費などを賄わなければないのです。完全民間か完全に公務ならば今回の様な問題も起こらなかったと思う。前者なら看護師さんが足らなくなって病院が倒産するか、まともなボーナスを支給して医療費をその分ねあげする。後者ならば税金で決まっただけのボーナスが当たり前の様に支給される。もっともそれも出処は税金なのですが。

結局、看護師さんのボーナスは病院を利用する患者さんか国民が負担することになるのです。誰かが使ってくださいと寄付でもしてくれたら良いのですが、経済が廻らない現状ではそんな奇特な人はいないだろう。前澤さんなんかどうかな?とにかくお金は空から降っては来ないと言うことです。天災が起きれば住む家を失くしたり怪我をしたりする。今回はコロナという天災が医療機関にも被害を及ぼしたのだと思う。ただ、その災害への対応の仕方が上手くできたり出来なかったりするのは、ある程度仕方のないことだろう。目の前の危機に対して真摯に向かい合うしか片方はないのかも知れません。

東京女子医大病院は資金調達の目処がたったとして8月に何らかの手当てを支給する方向で検討に入ったそうです。さらに労働組合側の意見として「単にボーナスの支給ゼロが理由で退職を希望しているのではない。大学理事会の教職員を大事にしない姿勢に失望し、働き続けていく展望を見出せなくなったことが原因」という発言があったそうです。ふ〜ん、教職員?なんだかいろいろ大変な事情があるみたいです。

人心の掌握なんて考えるだけ無駄

むかしはどの地域にも子供会というものがあった。婦人会や老人会と同じような地域コミュニティに一つだった。ほとんどの小学生は会員として登録されており、月に1回程度の集まりがあったように覚えている。小学6年生になると同じ6年生の中から班長というリーダーを決めることになっていた。まだ11~12歳だから班長の役目とかリーダーの資質とか全く考えていなかった。そんな状況で選挙があった。子供たちによる班長選挙だ。15名ほどの小学生が自分の班のリーダーを決めていた。3人いた6年生の中から一人の班長と一人の副班長をその場で挙手で決めた。1票差で副班長になった。その時初めて自分の資質を感じた。何が自分に足りないのかというより、家族以外では特別な人間ではない事を知った。

中学生になるとさらに自分を知ることになる。クラスには必ず人気者がいる。ボクは人気者ではなかったが少しだけリーダーシップはあったと思う。でもそれは人気者とそれを取り巻く主流派に乗り遅れた連中をまとめるしょぼいリーダーだった。高校になるとボクの立場はクラスの最下層になった。リーダーになろうなんて全く考えない奴になっていた。悲壮感もなくただ目立たないように生きていた。なんとか運よく社会の歯車になれたらいいなと考えていた。幸い、大学がFランだったので自信を取り戻すことができ、クラブ活動ではリーダーとして大きな活躍をすることができた。あまり能力の高くない集団の中でしか戦えないし、戦ってはいけない事を肝に銘じた。

60歳になり、ただでさえしょぼいリーダーシップにも陰りを見せ始めた。社員のモチベーションを維持し現状を破綻させないための様々な施策を講じている。時には努力して手に入れたテクニックを駆使したり、ある時は人間味を前面に出したある意味泣き落としをしてみたり。無様であり醜悪だ。ボクはそんな状況を望んでいない。ただ、ボクを含めた周りの人の幸せを願っているだけだ。それも相手の心には届かない。ボクの努力は人心を引き付けるどころか離れていっている。ボクの人間としての魅力を決めるのはボクではないからだ。努力や経験で穴埋めできる性質のものではない。リーダーは資質だと思う。

 

暗い話ではなく、幸せになるための自覚と捉えている。

 

引退までの1500日

4年後には引退する。テキトーな名目をつけて月に15万円の報酬を貰い、それに公的年金個人年金を合わせると週に1回くらいはゴルフに行けるだろう。いやなジジイと思われそうだ。でも、実は若者の生活を豊かにするための活動がボクの今後の仕事だと思っている。ジジイはなるべく早く引退し、若者が活躍できる場所を確保する。そしてガッツリ稼いでもらって税金を納め、日本の社会保障を安定させてもらいたい。結果、ボクの年金も安心だw

仕事は心と身体とスキルで進めるものだと思っている。能力は結果だと思っている。ボクの場合、心と身体とスキルは低下している。客観的にそう思う。だから引退を決めた。だけど能力は低下してるか分からない。残念ながら、もしかするとまだ社内で1番なのかもしれない。引退の準備を進めれば進めるほど不安が拡がる。そんなものは杞憂にすぎず、アンタがいなくなっても何の問題もないさという声が聞こえそう。しかし、コロナ禍で赤字なのにボーナスさえ確保すれば満足の執行役員が理解できない。利用者が減少して暇になったら喜んでしまうベテラン社員にカミナリを落としたいけど、パワハラになるからと止められる。すごく不安だ。これが不安な状況であることをボク一人しか感じていないのがまた不安だ。事業を存続させることができる能力はボクが1番高い。#違うだろ#そうじゃないだろ

なるべく多くの若者が事業の経営者になって欲しいと考えている。これからのサラリーマンは分が悪い。AIやITと競争しなければいけないし過度に保護された労働条件は自分の首を絞めることになるからだ。人の何倍も働いて這い上がるルートは閉ざされた。成功を掴みたいけど掴む努力をさせてくれない。結局基本能力が高いエリートしか高みを目指せない。その点小規模事業経営はいくらでも努力できる。経営者には労働基本法は適用されない。いくらでも働ける。税制でも経費をコントロールすることが可能になるメリットがある。もちろん自己責任だ。つまり自由ということだ。

責任と自由は与えてもらうものではない。自ら取りにいかねばならない。取られる覚悟はできている。

 

 

医療に求めるもの

 

Jリーグが再開してゲーム前に医療従事者への感謝の拍手というセレモニーを行っているのを見た。気持ちを実際の態度で表すのは大変結構なことだと思いましたが、肝心の医療従事者はどの様な気持ちであのセレモニーを見たんだろうか?感謝よりも感染の可能性を少しでも減らすために再開を延期して欲しいと思わなかっただろうか?新型コロナウイルスは、思っていたよりも手強いウイルスだ。これからもボクらを翻弄し続けるだろう。

医療体制に余裕がなくなれば、また非常事態宣言が発出されるはずだ。重篤化しやすい高齢者は不安に駆られるだろう。命の危険があるのだから。エクモという医療機器はそれを扱える技術者が少なく、年齢によってトリアージされる

基本的には健康は個人が守るものだ。国家や政府や病院が守るものではない。全てを国や政府や病院にお願いするのでなく、自分が自分の健康を守るために医療制度を利用するのだ。自分が選択した手段が上手くいかなかった時に自分以外の誰かを訴えるのは納得がいかない。人間だからミスはある。例えば針に糸を通す時どんなに慣れた人でも100回に1回くらいは失敗するはず。

だからよっぽど酷いミス以外は医療に責任はないのではないかとずっと思っていた。日本では医療を受ける権利はあっても、その医療の効果は保証されている訳ではない。良い悪いの問題ではなく、結果を作った要因は数多くある。医療はその中の一つに過ぎない。治療の難易度はさまざまだけど、難しい治療だからと言ってチャレンジしない医者は少ない。成功率が低くなってもチャレンジするのだ。しかし低くなった成功率のために不幸にもうまくいかなかった時に訴えられたりすると、医者はチャレンジすることすら難しくなる。なるべく医療に責任を求めないでください。

医療に対するリスペクトはそんな心の在り方にもあるとボクは思います。

 

一生安泰な生活

政治に関心がない訳ではありませんが、政治的意見を話すのは限られた場所にしています。それだけ言葉で伝えるのは難しく誤解を招く可能性があるからです。しかし今回の都知事戦は興味深いと思っています。ホリエモンの人間の底が見えたこともありますし、再選の為にコロナ対策を行わない小池さんにも失望しました。誰も自分のことで精一杯で政治で世の中を良くしようと思っている人間はほぼいないといっていいでしょう。要するに、自分の生活も人生設計も政治に頼らないで生きて行くしかないのだと確認しました。個人に生きる力が必要な時代です。大きな組織の中にいれば一生安泰というのは高度成長期だからこそ機能したマボロシに過ぎないのです。強力な指導者のもとにいれば夢が見られるなんて、なんだか情けないと思いませんか?

以前、40才定年説という荒唐無稽な話をしました。だけど単に奇をてらった話ではありません。こんな世の中だからこそ個人が強くなければならないのです。組織で学ぶのは40才まで、それからは独立し、それこそ70才でも80才でも働ける能力スキルを身につけることが寿命一杯を楽しめる重要な要素だと思います。自分で会社を作るからこそ充実した仕事ができるし、老後のお金など気にすることなく生活できるのです。飽きたら会社を売ることもできます。そのお金でまた新しい事業を始めてもよし、リタイアの自由もある。体が動かなくなっても若い人に活躍してもらえる環境を作ることでジジイ、ババアになっても存在感を発揮できるというものです。たった一度の人生だからこそギャンブルと言われても勝負をする方が充実感があるのではないでしょうか?40才を区切りとして余裕のある人生設計を構築するのは妙案にはなると思っています。

一生安泰な生活なんてクソ食らえです。自分から望んで誰かの飼い犬になるのならそれは手に入るかも知れません。そんなのはたった一度の人生をドブに捨てるようなものです。幸い日本は社会保障が整っています。事業でどんなに失敗したって殺されることはありません。少しだけ安心できる生活を捨てる勇気が必要なだけです。捨てれば新しい生活ができるでしょう。それが楽な生活なのか苦しい生活なのかはわかりませんが、新しい発見に満ちた生活であることは間違い無いでしょう。それだけでも十分価値はありそうです。

明日、経営会議を開くことにしています。ちょっとしたアイデアをプレゼンして、今よりも更に権限を移譲して身軽になりたいと思います。

 

視力という能力

特定健診に行ってきました。

γGTP↑・脂肪肝・血糖↑・尿たんぱく↑・心電図異常・メタボsyn。まあ、そんなものです。特に驚きません。去年も同じような状況だった。問題は視力。1.0と0.9でした。どっちがどっちなんてどうでも良い。すごく悪化している。学生時代は両眼2.0だったのに。

父親は教育熱心だったけど、眼が悪くなるくらいだったら勉強なんてするなという人だった。そんな免罪符があったからこそ勉強などほとんどせずにFラン大学に入学することができた(笑)おかげでそこそこの苦労はさせて頂きました。大卒初任給は128000円で手取りが98000円だったなあ。自分のことながら衝撃を受けたことを覚えている。そこそこの苦労が始まった齢だ。でも眼だけは良くてずっと2.0をキープしていた。視力が良いことで生じる社会生活への恩恵はまったくゼロでしたが。

眼が悪くなって感じるのはメガネがメンドクサイのと物の把握が大雑把になることだ。メガネは首に下げても頭に乗っけても持ち歩くには超メンドクサイ。ズボンの尻ポケットに仕舞うことができたらどんなに楽だろう。眼が悪いと細かい形や色合いがぼやけてしまうので、もう物事をきっちり捉えようとはしなくなる。全体を大まかにしか受けとめない。少しずつルーズになっていくようだ。時々靴下が左右合っていない。同じ色ならいいやとなる。髪型もそう。小さな寝癖は見えなくなった。ボクにとって一番面白くないのは人間や人間以外の小さな表情を見逃してしまうことだ。例えばサッカーの試合で、ピッチの中の選手の表情が見えない。怒っているのか冷静なのか、選手同士でどんなコミュニケーションをとっているのかほとんど分からなくなった。視力2.0の時は笑顔や唇の動きだって捉えることができた。臨場感が半分になった。また、散歩しているときに出会う野花や動物が平坦に見える。小鳥の種類も判別できない。楽しみが減ってしまって最低だ。

NHKスペシャルで生命の起源的な番組のなかで見たんだけど、動物が進化を早めたのは視力の発達にあるらしい。脳と視神経は密接に絡み合いながら進化していったというのだ。眼から入る情報は膨大で人生に与える影響も計り知れない。父親の言葉は正しかった。眼が悪くなるくらいなら勉強なんてしないぞ。そして出来る限りの感動をこの眼に焼き付けてやろうと思う。

だからブログは1日1時間までです。

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老いたウエルテルの悩み

老いは残酷である。

朽ちていく生命を客観的に眺める立場にいたものが、自分事として老いを体験することになった。当然で自然なことである。自分もいつか動けなくなって死ぬ。それが徐々に進行するか突然終わるかはわからない。ただ、刻一刻と死に向かって進んでいることは間違いない。そんなに悲観はしていない。だって誰にでも訪れるイベントだから。その時が来たら「ああ、面白かったな」とつぶやいて目を閉じればいい。まあこんなこと言っていいても間際で生にしがみつくかも知れない。それはその時次第だ。残酷なのは今も少しずつ老いが進行していることだ。

身体の衰えはまだ納得できる。30代から少しずつ低下してきた経験がある。対処方法も知っている。だけど、精神と神経(特に脳)機能の低下はつらい。自分の変化に納得がいかないからだ。作業が遅くなる。モチベーションを上げられない。興味が薄れる。記憶を保持するのが難しい。思い通りに身体を動かせない(神経の伝達速度が低下する)。すぐに疲れる。他多数。

良いこともある。プレッシャーがなくなる。統合思考ができる。がむしゃらに働いていた若い頃には憧れた余裕のある時間は増える。欲が無くなる。・・・・それって良いことなのか?

入社1年目の新入社員と30年目の専務取締役とでは生産性は圧倒的に専務が上だが作業効率は新入社員に軍配が上がる。手と脳が速く動かないからだ。さらに膨大な経験があるために判断の選択肢が10倍ほど多い。よってはたから見ればぼんやりしている時が増えるってこと。働かないジジイにしか見えない。齢を取った本人にしてみれば、結構まじめにタスクをこなしているのだ。

まだ60歳なのに最近車の運転に自信が持てなくなっている。安全確認だけで疲労する。道を間違えたり目的地を通り過ごしたりする。ドライブレンジにギアを入れたままサイドブレーキをかけて車から離れようとしたり、逆にサイドブレーキをかけたまま発進したり。情けないというより少し怖い。そんなミスは今までになかったことだ。たった1時間の運転でクタクタだ。

ボクにとって老いは現在進行中の大イベントだ。若きウエルテルも悩むだろうが、年老いたウエルテルもまた同様に悩む。ステージは違うが同じ道のりの中のイベントだ。勇気をもってステージの扉を開けることにする。

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