生きる権利と死ぬ権利
ALSを患う女性への嘱託殺人が話題になっている。依頼したのは女性本人だから自殺と呼べない事もない。この事件でまた「生きる権利と死ぬ権利」を考える事になった。ボクは死ぬ権利を認める派です。但し本人が家族と医師それ以外の多くの人と相談して冷静な判断ができる時間を費やすという条件付きです。日本の法律的には超消極的な安楽死しか認められていません。だけど法律に意味があるのでしょうか?法律は多くの人がお互いに安全に快適に生活できる様にするための規則だと思っています。人の権利を侵害してはならないというのが根底にある真理ではないでしょうか。生きる権利はともかく(場合によっては死刑など生きる権利が認められないケースもある)死ぬ権利は他人の権利を侵害することはないのです。舩後靖彦氏の『「生きたい」と言いにくくさせ、当事者を生きづらくさせる社会的圧力を形成していくことを危惧するからです。』という発言を否定するつもりはありません。気付きを与えてくれる貴重な意見だと思います。生きたいと思う人にはその権利を十分保護できる社会ができたら良いし、死ぬ権利を否定されない社会も共存できる社会がより良いと思うのです。本人の死ぬ権利を家族や医者や周りの人も認めることが出来たら権利を行使して問題が生じる事があるのでしょうか。生きる事は義務なのでしょうか。ボクは老人病院勤務時に、多くの自分の意思ではなく「生かされている人」をたくさん見てきました。色んな事情があっての事です。ただ、生きていて欲しいと思う家族の為。経済的に死んで欲しくない親族のため。病院の収入源のため。生命維持装置を外す事ができない法律のため。他にも沢山の理由があります。そしてその理由のために耐えがたい苦痛を受け止めているのは生き続けている本人なのです。権利はありません。
どうしても理解してほしいのは、個人の意見を否定しているわけではないことです。意見は表明したほうがいいと思いますが、押し付けてはいけないと思います。いろんな意見がある事だけでも共有するべきでしょう。それぞれの意見を尊重することこそが重要であるはずなのです。そして生きる権利が侵害されない様に発言に気をつけなければならないでしょう。
ここからどう生きようと考えます。何もしないで飯食って寝る生活もできるし、まだまだ仕事して動き回る生活もできるだろう。全部、自分で考えてコントロールできる時間を過ごしたいと思います。今日、お墓の掃除に行ってきました。墓前で亡父と語ったのは、後悔のない時間を生きろ!死ぬその時まで後悔がない様に生きたいという事でした。