ファイト!
ボクはほんとうに頭が良くありません。
高校の実力テストの成績は450人中411位でした。
勉強をしなければいけないことはわかっていても、机の前に座ると15分で集中力が切れていました。
27歳の時に、会社を辞めてリハビリの学校に入学しました。
44歳の時に、病院を辞めて会社を創りました。
ボクみたいなボンクラでも、利用者さんの力になれるんだとわかって、意気揚々と頑張っていました。
難病をお持ちのHさんの状態がおもわしくなくなりました。
一生懸命リハビリをしても身体の動きが悪くなります。
学生の時にとくに熱心に勉強した疾患でしたから、学術書を読み返したりインターネットで検索したりして、出来る限りの努力をしました。
解ったことが一つだけありました。
薬の処方が何年も変わっていなかったのです。
その疾患は神経伝達系のもので、定期的に処方を見直すのが常識とされています。
Hさんの奥さんに、薬の見直しを主治医にお願いしてはどうかと提案しました。
さっそく奥さんはお願いをされました。
ボクからそう言われたと。
ボクのデイサービスの電話か鳴りました。
電話の向こう側は、烈火のごとく怒り狂ったお医者さんでした。
「どうして君は医者でもないのに勝手なことを言うんだ!」
「いや、ボクは奥さんに相談してはどうかと提案しただけです」
「全体的な状況をみて、処方しているんだ!」
そして
「パーキンソン病が治らない病気だという事は君も知っているだろう!」
とも電話越しに怒鳴られました。
なんだかそのまま分かりましたと言いたくなくて
「ボクは奥さんの相談を受けて奥さんに対して提案したのです」
「先生に意見をしたわけではありません」
そんな生意気なことを口走っていました。
もうそれから30分ほどは一方的に説教を喰らったとおもいます。
ボクがなかなか謝らないから、お医者さんもますます怒ります。
地域の医師会を動かしてボクのデイサービスを潰すと言いはじめました。
そんなこと出来るものかと思いながらも、ここで心が折れました。
「すみませんでした。今後注意します」
その時は不思議と悔しいとか悲しいとか、感情的ではありませんでした。
ボクはボクの夢を、こんなところで失いたくない。
それだけを考えていました。
ただ、有りえないほどの力で受話器を握りしめていました。
頭の悪いボクでも夢をかなえるために闘っていいんだ。
諦めという鎖を、身をよじってほどいて行くんだ。
試合終了後のインタビューを拒否している大阪さん
東京オリンピックの開催に対して反対の声が大きくなってきてます。
ボクもどちらかと言えば反対です。
それは、国民・都民にとって安心安全な大会にするための方法やアイデアを国や都に期待できないことが現実的となっているからです。
スポーツ大会の在り方をもう一度考え直す時点にきているとおもいます。
そんな時に、プロテニスの大阪なおみ選手が試合後のインタビューを拒否し、最悪の場合、グランドスラム大会への出場権をはく奪される可能性が出てきたというニュースをあさチャンで見ました。
結論から言うと、プロテニスの大会はプロの興行なので、選手は興行主との契約もしくは約束は守らなければ大会という興行に参加はできないのです。
興行主が大会を開催するためのお金を投資してお客さんを獲得し、お客さんから頂いたお金で選手を招き、賞金を支払う。
身もふたもない表現ですが、これが現実です。
大阪選手はツイッタ―に「怒りは理解の欠如。変化は人々を不快にさせる」と投稿したそうです。
理解の欠如はお互いであって、話し合いこそが必要なのだとおもいます。
一方的に「Good bye&Good RIDDANCE」では解決する気がないのは大阪選手のほうだとみなされてもしかたがありません。
たぶん、彼女はお金のことなんかまったく頭になくて、ただ活躍すれば世界中の人々が喜んでくれると思っているのでしょう。
プロもアマも含め、スポーツが興行寄りになってしまっているようです。
スポーツには本来、心と身体の健全とあくなき限界への挑戦という自分の内側に向けた取り組みかたがありました。
それだけでなく、他人から認められたいという承認欲求があるでしょう。
有名になることでの経済的利点も存在します。
スポーツを極めるモチベーションの割合のなかで、少しずつそれらの要素が増えるているのではないでしょうか?
純粋にスポーツの素晴らしさを多くの人々に伝えたいだけなら選手とボランティアだけで大会を主催しても良いのです。
しかし、それだと命を削るような練習はできず(しないほうが良い)、感動を呼ぶ競技を生み出すことは難しいでしょう。
多くの人の努力(利益)を基にして大会(興行)があるのです。
だけど、決して努力(利益)を否定することはできません。
ボクを含めみんなが自分の利益のために必死で生きているのだから。
飲食店経営者もその人生を賭けて必死で利益に挑戦しているとおもいます。
そこに貴賤が発生するはずはないのです。
スポーツが実態以上に神格化されて久しくなりました。
大阪さんは興行主と話し合いをするか、引退して独自でテニスで生きる道をみつけることです。
機械は夢を見るのか?『脳の意識 機械の意識』読後感想文
個人的にはやりたい事をやった後は、あまり長生きもせずに静かに無になりたいと思っています。
ただ、生への執着が強く、コンピューターに自分の意識を移植して永遠の命を手に入れたいと考える人もいるようです。不幸だと思うよ。
『脳の意識 機械の意識』という本を読みました。
ボクにとってはとても難解で、正確には読み解くことができませんでしたが、興味深い内容でした。
子供の頃、サイボーグ009とか新造人間キャシャーンとか人造人間キカイダ―&ハカイダ―等その世界観に魅了されていました。
人間なの?ロボットなの?サイボーグって?アンドロイドって?
多くの疑問を残したまま物語を視聴していくうちに、やがて主人公たちの深い悲しみを知ることになる。
サイボーグ009とキャシャーンそれにハカイダ―は人間の意思を持っているのに対して、キカイダ―やターミネーターは人間の意思を持たないロボットの派生形になるだろう。
問題は、機械の意思と人間の意思に違いがあるのか?そもそも機械に意思が宿るのか?
そして人間の意思を機械に移植することは可能なのか?
『脳の意識 機械の意識』という本では超真面目にこの命題に対して考察されており、脳神経科学の知識が詰まっています。
そして、筆者は『未来のどこかの時点において、意識の移植が確立し、機械の中で第二の人生を送ることが可能になるのはほぼ間違いない』と言っています。
もし、そんなことが出来るのであれば人類は有史以来の夢であった不老不死を手に入れることになります。
果たして喜ぶべきか憂うべきか。
本を読みはしたが、理解は出来ませんでした。
しかし、ぼんやりとした概要は見えた気がするのです。
意識とは記憶と情報を基に、膨大な推論の上に導き出された主観ではないでしょうか?
また、その主観と並行して数多くの客観(データ)を繋げながら、少しずつ主観が明確化していくというプロセスを経て、個々の意識は成り立っているのかもしれないのです。
量子コンピュータなどを使えば何万何億という推論の末に独自の思慮ができる『意識』を生み出せそうです。
我思う、ゆえに我ありなのです。
機械にも多くの記憶データや膨大な情報があれば『ワタシは青い色が好き』とか『今日はなんとなく疲れた』などとつぶやく機械は出現するだろうと思います。
だが、機械に人間の意識を移植するとなったら話は全然違ってきます。
人間の脳は1000億個のニューロンから構成されていて、当然ながら機械とは全く違うシステムで動いているのです。
アナログ的システムは電気刺激を伝達するだけなら機会に置き換えることが可能かも知れませんが、同時多発的にあいまいさをもって伝達する芸当はデジタルにはむずかしいと思われます。
なぜなら生身の脳には髄液が満たされており、この液体のなかを伝達のための『神経伝達物質』が泳ぎ回っているのですから。
配線では組めない回路なのです。
もし、強引に途方もない量の配線を作ったとしても、アナログデータはとんでもない遠回りを強いられることになりそうです。
映画『ロボコップ』を観た時、これほどの悲劇はないと思いました。
機械の中で目覚めた時、人間の思考方法(思考機序)は否定され、徐々に意識もデジタル化されていくはずです。
生身の人間の脳の中で形作られた意識も、機械の中で変化しながら機械の意識に変わっていくのでしょう。
その時、移植された意識は機械の中で夢を見るのでしょうか。
初老時代 齢をとったら、こうなった
身体的変化
筋力の低下・心肺機能の低下・視力の低下・聴力の低下
自然治癒力の低下・判断速度の低下・運動能力の低下
髪の毛が薄くなる・腹が出る・表情が乏しくなる・加齢臭がでる・食欲が低下する
精神的変化
向上心が低下する・闘争心が激減する・感情の起伏が大きくなる
記憶力が低下する・焦ることが少なくなる・脳が疲れやすくなる
他人の評価が気になりにくくなる・精神的に安定する・視野が拡がる
社会的変化
怖がられなくなる・軽視される・尊敬される・鬱陶しいと思われる
信用力が高くなる・興味を持たれなくなる・地位は安定する
若い頃は、生活をより充実させるために常に焦っていた。
収入のこと地位のこと家庭のこと、必死でもがいていた。
大変だったが辛くはなかった。
気力も体力も満ち溢れていたから。
齢をとったら、いろんなことが低下した。
だけど、それはそれで納得している。
それなりに楽しい生活を送ることができる。(出来ないことも多いが)
もう少しこの世界で生きていても大丈夫みたいだ。
周りに感謝して生きるのは心地が良い。
セミリタイアライフ 習慣化できるかな?
会社では自分の部屋で、ひねもすのたりのたりしています。
休みの日は、以前と比べてゴロゴロすることが多くなったと思います。
仕事も遊びもコロナで活動量が減っています。
なんかヤバいです。
自由に生きることを最優先にしたいのですが、その為には生活の中にいくつかの課題を設定しなければいけないみたいです。
なぜなら意志が弱いへなちょこジジィは、すぐに健康寿命を使いはたして不自由な暮らしを余儀なくされそうだからです。
自らを律し健康を維持できなければ楽しい老後はやってこないと考えます。
やるべきことはいくらでもあります。
筋トレ・有酸素運動・歯周病予防・睡眠確保・食事制限・気分転換・ストレッチ等。
なんだかあまりやる気が出ない言葉が並びました。
全部を習慣化するなんてできそうもないです。
なぜなら意志が弱いへなちょこジジィだからです。
・筋トレは最低でも週に2回行う。
・散歩は毎日(雨の日以外)歩く。
・ゴルフを月に2回楽しむ。
・食事は腹八分で、3時間空けてから入眠する。
これだけでも充分効果はあるでしょう。
だけど習慣化するためには、もう少し工夫したいと思います。
・筋トレは仮想敵を設定して、「お前だけには負けん!」という闘争心をもつ。
・散歩は仕事時間内でも距離は1kmでも良い。
・ゴルフは基本的に妻と出かける。無理な時は一人ゴルフ。
・夕食時間は19時、就寝時間は22時30分。
なるべくハードルを下げて挑戦します。
リタイアおよびセミリタイア後はついつい自分に甘くなりがちです。
だらだら過ごしていたら、あっという間に本来の意味で人生終了です。
横川駅裏エレジー
JR横川駅は広島駅から西に二つ目の、山陽線と可部線の接続駅である。
今は近代的な駅舎に生まれ変わっているが、40年前は昭和初期の面影が残る庶民的な駅だった。
特に駅裏の商店街はドヤ街のような雰囲気があった。
ちいさな一杯飲み屋が乱立していたが、どこの店も自分とこの看板よりも『賀茂鶴』や『ニッカウヰスキー』などの商品の宣伝看板のほうが目立っていて、その界隈は全体で一つの飲み屋であるかのような錯覚があった。
店の玄関先に平気でゴミ箱を置いていることからも、不衛生であることが駅の利用客や周辺住民からは暗黙知だったように覚えている。
大学の4年間は可部線沿線にアパートを借りていたこともあり、この横川駅をよく使った。
低身長で顔が不細工なオトコがオンナにモテるためには権力と財力を得るしかない。
今ではそんなことすら不可能になっているが、40年前ではそれでなんとかなった。
必死に努力すればモテることができた。
もっともボクの場合はお金もなかったので、残された手段は権力=集団の中心で自分の魅力をアピールすることしかなかった。
皆のために働く。良い人を演じる。喜んで貧乏くじを引く。
すべてモテたいからだった。
21歳の健康な男子としては、むしろごく当たり前な欲望だったと今でも思う。
それでもボクのようにあまりにもストレートな行動基準をつくる人間も少なかったので、すぐに結果を出すことができた。
結果というのはモテではなくて、集団の中心になるということ。
大学生のサークル、構成員250名の代表になった。
頑張れば頑張るだけ、女子構成員の注目を集めることができた。
でも、彼女は出来なかった。
後輩から見るとモテていたそうだ。自分にはまったく自覚がない。
女子はいつもボクを遠巻きに眺め、チヤホヤしてくれたけど、目を付けた可愛い子に手を出そうとすると、蜘蛛の子を散らすようにボクから離れていく。
デートまでは行けるけど、深い関係になる女の子は皆無だった。
どうしても恋人がほしい。いや、あからさまに言うとセックスがしたい。
モテなかったのは、きっとそんなドロドロとした内面が、分厚くて不細工な唇の隙間から垣間見えていたんだろう。
あの日もボクは懸命に自分勝手なリヒドーと向かい合い、行動していた。
いわゆるお嬢様大学と言われる女子大で、知り合いの知り合いという女の子と知り合うことができた。
ちょっと不思議系の女の子だった。
けっして美形の部類ではなかったが、丸い顔に悪戯そうなくちびるがコケティッシュに感じられた。
すぐにボクの事が好きだとはっきり通告された。デートもまだなのに。
サークルのイベントの帰り道、打ち上げで安い酒を飲んだからか、なんでもできそうな全能感を感じていた。
そして公衆電話からその子を呼び出した。
数時間後、広島駅で彼女と別れ、可部線に乗り換えるために横川駅に途中下車した。
なんだかむちゃくちゃ切なくて、自然と涙がこぼれていた。
なんでこんなに悲しいのか、自分でもわからなかった。
駅の裏に出て『賀茂鶴』をコップ一杯だけ飲んだ。
ものの10分もかけずに酒を流し込み、店を出たボクは確かに酔っていた。
駅に向かって数十歩あるいたところで、強烈な嘔気に襲われ、そのまま電信柱の陰で吐いた。
涙と鼻水とゲロがぐちゃぐちゃになって、みじめで最低だった。
自分の欲望は達成した。だけど最低な気分のほうが圧倒的に心を覆っていた。
なにか大きくて大切なものを壊してしまった。
湧き上がる欲望が憎くて堪らなかった。
顔をあげると、焦点の合わない視野のなかで、ぼんやり滲んだ赤ちょうちんがゆれていた。
理学療法士の皆さん、朗報です!
脳梗塞後の運動機能の改善は、長い間リハビリテーションスタッフの課題であり、大きな壁でした。
何らかの原因で脳の血管が閉塞した場合、その発症部位や程度により、運動神経や知覚神経に麻痺性の障害が発生することがあります。
方麻痺などとよばれる症状は、患者さんの生活におおきな影響を与えることになります。
そして、特に理学療法士は、この麻痺に対する理学療法で明確な治療手技を発揮することが困難と感じていました。
しかし、ついに画期的な治療方法が確立されようとしています。
“Muse細胞”脳梗塞患者の身体機能が改善 (msn.com)
これまで多くの患者さんを苦しめていた片麻痺の改善が期待できます。
これまで多くの理学療法士に敗北感を抱かせた療法に決別ができます。
なにより「自分は治療家だ」という思い込みを捨てる絶好の機会です。
リハビリテーションチームの手足の一つとして活躍することが、全体の利益につながることを自覚するチャンスです。
今回のMuse細胞やmRNAワクチンのように医療技術は進歩し続けることでしょう。
自分ができることを今一度じっくり考えたほうが良さそうです。