ボクの定年

還暦オーバー!今日もチャレンジ!

スポーツを考える

地元で開催されるオリンピックの真っ只中で、ボクの頭の中にとても不謹慎というか非国民というか、変な思いが湧いてきます。別に炎上目的ではございません。

スポーツとは何か?語源として有力なのがラテン語の「deportare」(デポルターレ)だそうです。直訳すると運搬する、転じて気分転換という意味があるようです。

気晴らしとかストレス解消のために身体を動かすことがスポーツの意義でもあり目的でもあるのです。そして競技としてのスポーツは、狩猟をおこなう際の練習であるとか余暇のなかで形作られた活動だった。

翻ってオリンピックを見てみると、そこにあるのは気分転換でもなく、余暇でもない。ただ、ひたすらに心身の限界に挑戦し、人類の可能性を追求する姿がある。その姿はとても尊くみえる。実際に限界に挑んだ選手は尊敬に値すると心からおもう。

 

心からおもうことが心配になる。選手は心身を限界まで酷使しているからだ。ボクらはテレビの前で、ただ感動していればいいのだけど、選手はとんでもないリスクを背負って競技している。池井選手が白血病を患ったのも、行き過ぎた高地トレーニングが原因の一つであると想像する人も多いと思う。39歳になる上野投手の、ソフトボールにささげた壮絶な半生に、ボクらは無責任に感動の涙を流す。

あまりにもハイリスク・ハイリターン。幼少時からの時間を、すべてスポーツに賭けてしまわないと、世界では戦えない。しかもどれだけ賭けたとしても敗者となる確率が圧倒的に高い。敗者には何も残らないのに。

 

純粋に生活の傍らでスポーツを追求し、達成感や連帯感、向上心の充足を得ていた頃とは状況が違いすぎている。特にオリンピックでは関わるほとんどの人が、それまでとは違う「計算」を隠し持っている。リスクに見合うリターンを取りに行く。大阪選手がグランドスラム大会よりオリンピックを選んだのは、聖火の最終ランナーというリターンだと思う。必ず歴史に残る希少価値は絶大だ。彼女は「計算」をしたのだ。

オリンピックには、お金には替えられない(替えようと思えば簡単に替えられる)利益がある。選手にその意識があるかどうかではなく、歴然と目に見えにくい形で利益があるのだ。ボクはそれ自体は健全だと感じる。だれだって利益のために活動するものだ。本当に心配しなければならないことは、利益のためのリスクがあまりにも高くなりすぎている点なのだ。すでに心身は限界を超え始めている。それでもなお、止まることが許されない空気が醸成されているようで、とても気持ちが悪い。

これ(オリンピックの競技)がもし、国威の高揚とか国民に夢や希望を与えるとか、そんな政治的な使い方をされているのであれば、一度立ち止まって考え直した方が良いでしょう。愛すべきアスリートのために。

f:id:comoshin:20210728165017j:plain