強者の論理
オリンピックはとうとう有観客で開催されそうですね。
何があってもやりきるんだ!という熱意が感じられます。
アスリート気質が満ち溢れるJOCや組織委員の、前だけを見る視線が痛いです。
スポーツが大好きだという人のほうが圧倒的に多いと思います。
地道な努力をひたすら重ね、自らの限界を超えた先に勝利を勝ち取る。
すばらしい事です。
観ているだけでモチベーションが湧きあがります。
多少きつくても筋トレしよう!って思います。
勝者を見ているからです。
オリンピックに出場できる選手は、ほとんど勝者です。
各国の予選を勝ち抜けてきた勝者のための大会です。
そのために敗者を含む一般市民は大きなリスクを負わされるのです。
努力で勝ち取った勝者という権威の前では、ただそれを讃えるしかないのです。
自分たちは努力が足らないので勝者ではない。
植え付けられた自己責任論のもとで、オリンピック有観客開催が目の前です。
資本主義の中では、戦いは日常です。
勝つか負けるかで人生が決まります。
商売敵と闘う、職場での出世競争、仲間内でマウントを取り合う、地域で一目置かれる存在になる。
そこらじゅう勝負だらけです。
勝者は目的を果たし発言力を高める。
敗者は黙して養分となる。
あるインフルエンサーが、自国開催のスポーツを観たいという理由でオリンピック開催に賛成だと話していました。
娯楽のために市民の生活が脅かされることになっても、なんら問題はないのです。
第5波がきて被害を被る人たちの事は、ただの敗者としかみえていないのでしょう。
努力して勝てばいいだけ。
勝つ能力がある人には、単純明快な論理があるのです。
菅首相にもアスリート気質があるのかどうか分かりません。
ただ五輪開催に向けて、前だけをみて突き進む姿勢は、勝つしかない状況に追い込まれたアスリートを連想させます。
なぜリスクを負ってまでオリンピックを有観客で開催しなければならないのか?
説明は必要です。
きっと巨大な勝者が娯楽を必要としているのでしょう。